100年の孤独

I only sleep with people I love, which is why I have insomnia

Closing Ward 2


仲間の一人は、自分に火をつけた子だった。彼女はガソリンを使った。その頃はまだ、運転できる年齢ではなかった。どうやってガソリンを手に入れたのだろう。近所のガソリンスタンドまで行って「お父さんの車がガス欠なの」と言ったのだろうか。どんな表情でそれを言ったのだろうか。彼女を見るたびにそのことを考えずにはいられなかった。
 
ガソリンはきっと鎖骨のくぼみに溜まったに違いない。だって、首から頬にかけての火傷が、一番酷かったから。 首から顔にかけて、火傷は明るいピンクと白の分厚い縞模様になっていた。火傷の跡があんまり大きくごわごわしているので、首をひねることが出来ず、隣に立っている人を見るときには上半身をひねらなくてはならない。
 
傷跡には個性がない。皮膚とは違う。老けもせず、病気にもならない。青白くなったり日焼けしたりしないし、毛穴も産毛もない。ビニールのカバーみたいだ。下にあるものを覆い隠してしまう。すっぽり。わたしたちがカバーをするのはそのためだ。隠しておきたいものがあるから。わたしたちはその上にカバーをする。
 
彼女は彩乃という名前だった。彩乃ちゃんは自分に火をつけようと考えた何日間、きっと自分の名前がバカらしく感じたに違いない。でも、カバーをかぶって生き残った彼女には、彼女の名前は似合っていた。彩乃ちゃんは不幸な顔をしたことがなかった。不幸な子達に親切で優しかった。一度も不満を言わなかった。いつも人の愚痴を聞いてあげて、優しくうなずいていた。固いピンクと白のカバーに包まれた彩乃ちゃんは非の打ち所がなかった。完璧な彩乃ちゃんはかつてその完璧なカバーの下の耳元で「死のう」と囁いたものを、今や完全に葬り去っていた。
 
どうしてそんなことをしたのか。誰も知らない。誰も聞けなかった。
だって、それはすごい勇気のあることだもの!自分に火をつける勇気のある子が、彼女の他にいるだろうか?
アスピリンを50錠飲む。手首をすっと切ってみる。ビルの屋上の柵を越えて、あのムカムカするような30分を過ごす。
それくらいはみんな経験していた。でもそれは自分に火をつけることとは全然違う。
14階建てのマンションの屋上の柵を越えて身を乗り出し、そこから最後の一歩を踏み出そうとすると、それまでの自分と、次の一瞬からの自分の間には、世界の全てがあるのだということに気づく。そしてみんなその世界に打ちのめされてしまう。それでやはり柵にしがみついて泣きじゃくり、他の方法を探さなきゃと思いなおす。
でも、彩乃ちゃんは全世界に勝った。
彩乃ちゃんは完璧になる前にすでに全世界に勝って、そのうえでさらに完璧になってしまった。
 
彩乃ちゃんは火をつける前に、屋上に行ったり、アスピリンを飲んだり、手首を切ったりしてみたのだろうか?
それとも、ふと思いついて火をつけたのだろうか?
わたしもあるときふと思いついた。朝目が覚めて「今日はアスピリンを50錠飲むんだ」と思った。それがわたしの、今日の仕事だった。
下着のままベッドの上であぐらをかいて、アスピリンを10錠ずつ一列に並べて、一つずつ数えて飲んだ。
でもわたしは彩乃ちゃんとは違う。わたしは途中でやめることが出来た。10錠で、30錠で、それに実際わたしがしたようにマンションから出て通路に倒れこむことだって出来た。50錠のアスピリンはすごいことだけど、通路に行って倒れこむことは、また柵を超えてエレベーターで部屋に戻るのと同じことだ。
 
彩乃ちゃんはマッチを擦った。どこで?マンションの地下の駐車場で?夜の大学の体育館で?水の抜かれた空っぽのプールで?
誰かがそれを見つけて火を消した。でも、それはすぐではなかった。
誰がキスをするだろう。皮膚のない女の子に。
 
病院では彩乃ちゃんは人気者だった。他の子が暴れたり、おびえたり、泣いたりしていると、彩乃ちゃんは微笑みながらそれを見ていた。
おびえた子のそばに彼女が座る。すると、その子たちはおとなしくなった。彼女の微笑はありきたりではなくて、理解があった。人生は地獄。それを彼女は知っていた。でもね、と彼女の微笑は言っているようだった。あたしはそんなものを全部焼き捨てたのよ。そう言うかのような彼女の微笑みは、少しだけ自慢気なそれだった。
わたしたちは、それを焼き捨てる勇気はない。彩乃ちゃんはそれも分かっていた。人それぞれだもの。みんな、自分に出来ることをするだけよ。
 
ある朝、誰かが泣いていた。夢を見たと半狂乱で訴える人がいたり、寝起きで気が立ってる人同士が喧嘩したり、喧嘩がなくても誰かしら泣いているのも、やっぱりいつものことだから、騒々しい朝はここでは珍しくない。それに彩乃ちゃんはいつも控えめな子だったから朝食のときにいなかったのも誰も気が付かなかった。
朝食が済んでも泣き声は止まなかったのでそのころになってようやくわたしは聞いた。
「誰が泣いてるの?」誰も知らなかった。
「彩乃ちゃんだよ」何でも知ってる綾香ちゃんが言った。
「どうして?」だが、綾香ちゃんでさえその理由は分からなかった。
 
夕暮れ時、泣き声は悲鳴に変わっていた。夕暮れ時は危険な時間だ。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
という叫び声に「イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!」
という叫び声が続いて、それはやがて言葉に変わった。
 
「わたしの顔!わたしの顔!ワ!タ!シ!ノ!カ!オ!」
 
彼女を慰める声が聞こえたが、叫び声は真夜中まで続いた。
綾香ちゃんが言った。「たぶんこうなると思ってたわ」
そのときわたしたちは、自分はなんて馬鹿だったんだろう。と思った。