100年の孤独

I only sleep with people I love, which is why I have insomnia

Closing Ward 3


ゆかちゃんがまた逃げた。みんなちょっと悲しかった。だって、ゆかちゃんがいると活気があったから。辛気臭い病院の中で、ゆかちゃんの周りだけが華やいで見えた。一日でもゆかちゃんが居なくなるとみんな悲しい気分になる。ゆかちゃんの周りは、まるで空気の輝度が一段階上がってるみたいだと、誰かが言っていた。わたしもそう思う。
一番傑作なのは、ゆかちゃんがいつもどおり捕まって、汚れて、目をぎらぎらさせて戻ってくる時。ゆかちゃんは捕まえた人間を罵倒して叫びまわる。その悪口を聞くと、百戦錬磨のベテランスタッフも思わず笑ってしまう。

たいていはその日のうちに見つかった。無一文の徒歩ではそう遠くへはいけない。ところが、今回はついていたらしく三日も粘った。
ゆかちゃんは殆どものを食べず、全然眠らない。だからいつも、いかにも絶食中ですというように黄色く痩せこけて、目の下には大きな隈が出来ている。艶のない長い髪を胸まで垂らして、見たこともないくらい長い爪をしている。どこからどう見ても。キチガイ

今回連れ戻されたときは、当人と同じくらい周囲の人間も怒っていた。大きな男が二人で彼女を押さえつけて、もう一人が目が釣り上がるほどきつく髪をつかんでいる。ゆかちゃんを含め、全員が押し黙っている。彼女が廊下の突き当たりにある保護室に連れて行かれるのを、わたしたちは見ていた。
わたしたちは色々なことを見た。隔離病棟で壁にうんこを擦り付ける老女。泣きながら電気ショック療法から戻る、殆ど骸骨と区別がつかないような女の子。でも一番酷かったのは、二日の隔離の後戻ってきたゆかちゃんだった。

ゆかちゃんの爪は深爪になるほど切られていた。ゆかちゃんの爪は美しかった。いつもきれいに磨かれていた。スタッフは「鋭い」と言った。
スタッフはベルトも取り上げてしまった。ベルトはゆかちゃんがお兄さんからもらったものだった。ゆかちゃんに連絡をくれるのは家族の中でもお兄さんだけだった。父親も母親も彼女がソシオパス(社会病質性人格障害)だから。と言って面会には来ない。そのベルトを、首を吊らないようにと言って、取り上げた。ゆかちゃんが首を吊るなんてするはずないということを、スタッフは分かっていなかった。

保護室から出るときにベルトは返してくれたし、爪も伸び始めていたけど、でも、戻ってきたのはゆかちゃんじゃなかった。
彼女は病気の重い子達と一緒に、ただ座ってテレビを見ていた。以前のゆかちゃんはテレビなんか見なかった。テレビを見る子を頭から軽蔑していた。「そんなの屑よ!」テレビ室に頭だけ突っ込んで叫ぶ。「あんたたち去勢されてるのよ!頭が鈍って足し算が出来ないロボットみたいになってるわ!そんなの見てたらもっと酷くなるんだから!」ときにはテレビを消して、誰かつけられるもんならつけてみろとばかりにテレビの前に立ちはだかった。テレビを見るのは大抵、緊張型統合失調症鬱病の子だったから、誰も動こうとはしなかった。五分くらいすると大抵じっとしていられないゆかちゃんが他の事を始め、スタッフがチェックしに来てテレビをまたつけた。

ゆかちゃんはわたしたちと一緒にいた二年間眠らなかったので、スタッフは彼女にベットに入りなさいとは言わなかった。
彼女は寝る代わりに爪の手入れをした。廊下に椅子を持ち出して、まるで夜勤のようだった。
彼女はココアを作るのが上手で、午前三時になると夜勤や起きている誰かのためにココアを作った。夜のほうが彼女はおとなしかった。
一度聞いたことがある「ゆかちゃん。どうして夜は駆け回って叫ばないの?」
「だって休む必要があるもの」ゆかちゃんは答えてくれた。「眠らないからって、休まなくていいわけじゃないのよ」

ゆかちゃんはいつも何が必要か分かっていた。
「ここを出て休む必要があるわ」そう言って彼女は逃げた。戻ってきたとき、外はどんな風だった?とわたしたちは聞いた。
「いやな世界よ」彼女はたいてい戻ってきたことを喜んでいた。「外じゃ誰も世話してくれないのよ」

ゆかちゃんはもう何も言わなくなった。いつもテレビ室にいた。彼女は小学生向けの教育番組を見て、お昼のトーク番組を見て、ドラマを見て、深夜の通販番組を見て、テストパターンを見て、早朝のニュース番組を見た。廊下の椅子は空で、誰もココアをもらえなくなった。
「ゆかちゃんに何か飲ませたの?」わたしはチェックに来たスタッフにきいた。「患者と治療の話はしないの。知ってるでしょう」婦長に聞いてみても同じだった。「治療の話はしません。分かってるでしょ」ゆかちゃんに聞いてみてもダメだった。彼女はわたしを見ようともしなかった。老女は壁にうんこを塗り、骸骨は電流を流されて「悲しいんじゃないの」「でも泣くのを止められないの」と言った。そんな風に二ヶ月が過ぎた。

春になると、ゆかちゃんはテレビ室から少し出るようになった。というか、バスルームでも過ごすようになった。それでも大きな変化だ。
新米のスタッフが入ってきて、わたしたちに聞く「彼女、バスルームで何をやっているの?」わたしは答えた「待ってるんだよ!バスルームのドアを開けてあたしたちキチガイに残された最後のプライバシーを犯す新米看護婦のことをね!」って。彼女は気味悪がってわたしたちに近づかなくなった。

わたしはゆかちゃんが毎回別のバスルームに入ることに気がついた。バスルームは四つあり、彼女は毎日違うバスルームに入る。順番に。具合がいいようには見えなかった。爪はもう元の長さまで戻っていた。

五月のある朝、ドアがバタンと閉まる音がした。ゆかちゃんが食堂に現れた。
「テレビなんかたくさん」そう言って、以前そうしていたようにカップにコーヒーを注ぎ、わたしたちにむかって微笑んだ。わたしたちも笑い返した。「見てごらん」と彼女は言った。
ドタドタとあわただしく廊下を走る音がして「なんでまた…」とか「どうしてこんなことを…」という声が聞こえてきて、婦長が食堂に入ってきた。
ゆかちゃんの前に来て言う「あなたね」何があったかみんなで見に行った。
ゆかちゃんは何十メートルもあるトイレットペーパーで家具を全て包んでいた。テレビも天井のスプリンクラーも全部。おまけに緊張型の子も何人かつつまれていたから、わたしたちは転がって大笑いしてしまった。白いトイレットペーパーがあらゆるものに巻きついてひらひらしていた。素晴らしい光景だった。わたしは始めてキチガイになって良かったと思った。

「彼女、何ヶ月もの間とぼけて、こんなことをたくらんでいたんだわ!」綾香ちゃんが笑いながら言った。夏は楽しく、ゆかちゃんは自由の身だった三日間に何をしたか、たくさん話してくれた。