100年の孤独

I only sleep with people I love, which is why I have insomnia

Closing Ward 5

夜中に、物音で目が覚めた。ここでは定期的に誰かしらが奇声を上げるので(夜中は特に)大抵の物音には睡眠を邪魔されるようなことは無いのだけれど、その音は違った。それは、笑い声を早送りにしたものを何度もループして再生したみたいだった。でもその声は普通の笑い声じゃなかった。笑いすぎて声が裏返っちゃったりしたときの、変な笑い声だけ切り取って、まるで馬鹿にしたかのように再生を続けるような音だった。とても近い。この部屋にいる誰かの声だった。ベッドを仕切るカーテンの、その向こうで正に今、誰かが笑っている、もしくは泣いている、その声だ。

「綾香ちゃん?」

何の根拠も無く、私がそう口走ると、そのまま声は切れた。

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綾香ちゃんが病棟から消えてから2週間後、私たちはみんなまとめて違う病院に移された。こういうことは普通ありえない。「引越し」は普通、数週間か数ヶ月に1度くらいの頻度で、一人ずつ行われるはずだ。新しい病院では、新しい医者、新しい看護士、それと中古のベッドが、あたしたちキチガイの変わらない日常を管理する。そのはずだった。

「あなたは愚かです。それがとても良かった」

医者という人種はいつも、どいつも無責任なことばかり言う。

「あなたは愚かでした。あなたは教えられたことを完全に学習しませんでした。お利口な子は、そんなふうに教えられたら、それを内面化する。でもあなたは理解が遅かったので、あなたという個人を失わずに済みました」

知った風な口ばかりをきいて、発言の最後にはきまって「おまえもオレと寝たいんだろ?」という類の視線を投げかけてくる。

「あなたが教えられた内容を完全に内面化していたら、あなたはおそらく生きていません」

そんなことは聞きたくない。

「あなたは彼らの言うことが理解できなかった。あなたは成長が遅くて、だから愚かだった。あるいは身を守るために愚かであることを選択した。どちらかは私にはわからない。ともかく、それがあなたを救った。あなたは可哀想なくらい強くて、ひどく愚かだったので、死ななかった。それはとても幸運なことです。わかりますか?あなたは死んでいてもちっともおかしくなかった」

大抵の患者にとって病院は、刑務所であると同時に避難所だ。世界から切り離され、自分が起こしてきた色々なトラブルと隔絶され、同時にわたしたちを狂うほど追い詰めた期待や要求からも切り離された。病院は私たちを包む繭だ。

「あなたが成長過程で受けたきたものは、暴力です。ごはんを食べさせてもらったとあなたは言う。ごはんは美味しかったとあなたは言う。ごはん食べたかったから、とあなたは言う。でもね、ごはんを食べさせないことばかりが暴力なんじゃない。ごはんを餌にするのも暴力です。殴ることばかりが暴力なんじゃない。殴られないから幸せだと思わせるのも暴力です。あなたはもう大人で、ずいぶん賢くなったから、本当はそのことを知っているはずです。あなたが疲れているのは、ずっととても緊張していて、生き残る方法を探していたからです。」

妙な言い方だけど、私たちは自由だった。私たちはもう終着点にいたんだもの。私たちは、食事と服薬以外のすべてのことから逃げられる魔法の鍵を渡されたはずだった。

「今までの記録を見ました…」

そこから先の会話は人に伝えるべき価値あることなんて一言たりとも無かった。事務的な連絡と、事務的な祝福。私は境界線を一歩、二年前と逆の方向にまたいで、また分かりきった、それでいて言い尽くせない疎外感に苛まれた。

退院の日の朝は柔らかな風が吹く気持ちのいい、何か新しいことを始めるのにはぴったりの朝だった。前の週に彩乃ちゃんが自殺した。だから彩乃ちゃんと同じ部屋の子たちに気晴らしが必要だと言うことなんだろう。私の見送りと一緒に同室だった5人に、ワゴンで路面販売しているアイスクリームを買ってもらう許可が下りた。病院の美しい薔薇園と背の高い木々たちの間を抜け、徒歩で10分か15分の距離だった。病院から遠くなるにつれ、看護師達は神経を尖らせた。通りに出る頃には口をしっかり閉じ、私たちにぴったりと寄り添って「なんでもない表情」を作る。「私たちは6人のキチガイをアイスクリーム屋に連れて行く看護師ではありませんよ」という顔だ。でも、実際は私たちは付き添われる6人の狂人だったので、狂人らしく振舞った。

「アイスクリームのコーンを8つ」看護師がいう。
「はい。ただいま」新人のニキビ顔の男の子は愛想が良かった。私たちは味を決めるのにとても時間が掛かった。いつもそうだ。
「ペパーミントちんちん」
「ペパーミントだけでいいのよ」
「チョコレートちんちん」
「よしなさいってば!」
看護師に頬をつねられてようやくみんなが大人しくなった。一番人気はチョコレートだった。私は春の新商品だと言うピーチメルバ。「ナッツをかけますか?」新人店員がそう言うと、みんなが顔を見合わせた。nuts(キチガイ)だって?言ってあげようか?どうしよう?看護師が後ろで声を殺している。

「ううん。あたしたちにはいらないみたい」彩乃ちゃんと隣のベッドだった背の高い女の子が答えた。

それから私は、みんなと分かれて30分くらいぐるぐると通りを回った後、もう一度さっきのアイスクリーム屋によってアイスをおかわりした。
ペパーミントちんちんに、ナッツをたっぷり。