100年の孤独

I only sleep with people I love, which is why I have insomnia

おちんぽ美味しい

ネットスラングやテンプレ−トの台詞等に対する憎悪すれすれの嫌悪をどうにかしたい。
ベジタリアンは前世で食虫植物に食われて死んだハエで、その復讐を今しているんだと言う話をアルゼンチンの人間から聞いたことがあるが、俺が(歴史の浅い)定型のやりとりに対して向ける嫌悪は、ベジタリアンが草に向ける偏執的な復讐心と比べても何ら遜色がない。
しかし困ったことがある。俺が嫌悪と怒りを燃やすネットスラングやテンプレ文化は、決して「悪」ではないのだ。
自分の感情が倫理や道徳によるバックアップを得られないのはとても心細い。寄る辺もない心持ちとはこの事である。テンプレ文化が疑いようもない悪で「必ずやあの邪知暴虐のネットスラング野郎を除かなければならぬ」と正義感に燃えられたらどれだけいいだろう。しかし現実はそうではない。ミンスは激怒した。激怒したが、その怒りを口にすれば、きっと炎上する。ミンスはそっとブラウザを閉じ、苛立ちを解消するために、走る事にした。走れミンス。ネットに悪口を書くよりも、その方がいい。俺が太宰だったら、そんな短編を書いていただろう。
この感覚は昨日今日始まったものではないので、なぜこんなに苛立つのか考えたことは過去に何度もある。自分が楽しめない事で皆が盛り上がってることに対する嫉妬なんだろうかとも思ったのだが、どうもそういうわけでもない。我ながら不可解な心の動きだ。兎に角一つ言えることは、何でもかんでも近似を取って既成の表現でアウトプットするよりも、自分の感情と真摯に向き合って言葉を紡ぐ方がやはり尊いと思えるという事だ。美少女が言う「おちんぽ美味しい」という台詞よりも、屈強なゲイの「性病のリスクと生チンポの美味しさを天秤にかけた結果、ゴムは使わない」といった一言にこそ、俺は心が動くのだ。