100年の孤独

I only sleep with people I love, which is why I have insomnia

マッドマックス 怒りのデス・ロード

マッドマックス 怒りのデス・ロードを見た。10回。
見ました。見ましたよ。良く飽きもせず同じ映画10回も見たもんだと自分でも思いますよ。1回1800円で計算して合計18000円ですよ。18000円あったら何ができると思いますか?18000円もあったら、アフリカの貧しい子供たちに、マッドマックスを10回見せてあげられるわけですよ。まぁ素敵。そういうわけで、これから俺が懇切丁寧にマッドマックスがいかに面白く正しく美しい映画であるか、そしてイモータン・ジョーが素晴らしい人間であるか説明するから、2番館での上映が始まったらまだマッドマックスを見てないというフニャチン野郎も、すでにV型8気筒の型に両手を組んでるウォーボーイズの皆も、あまねく全人類はジョージ・ミラーに感謝をささげつつ映画館に金を落とすんだよ。いいかい?耳おじさんとの約束だ!

まず、マッドマックスの何が素晴らしいかというと、何はともあれ「面白い」という事。その他の要素、正しさや、美術的な造形など、それぞれが注目すべきクオリティの高さでまとまっているんだけども、そんな事は取りあえず気にしなくても大丈夫。まず何よりもシンプルに誰が見てもわかりやすく「面白い」それがどんなに素晴らしいか。どこまでも正しく美しくある物語の、その美しさ正しさをあくまで添え物として、面白さの供物として捧げるその様の尊さ。全てのエンターテイメントに携わる人間はジョージ・ミラーに一杯ずつビールをおごるべきだし、あまねく創造性が要求される業種では社員に銀スプレーを支給して心折れそうなときはみんなそれを口に吹き付けて気合を入れなおすべきだと思う。

そしてこの「面白さ」が「面白さのための面白さ」になっていない。物語世界を描写する必然と表裏一体になっているという構造はなんだかもはや面白いとかじゃなくて「ありがたい」「尊い」という言葉がしっくりくる。何を言っているかわかりづらいと思うんだけど、この映画で描くのは荒廃した未来の世界で、そこでイモータン・ジョーはカルト宗教の教祖になって人々を支配する。もっと直接的に言うと『宗教的熱狂』で人々を支配する。その熱狂の根幹は暴力とスピードと音楽(轟音)が生む高揚感だ。そしてこの人々を宗教的熱狂に駆り立てる暴力、スピード、轟音の三要素を、超絶にクオリティの高い美術、演出、カメラで描写することで、物語世界の熱狂はスクリーンのこちらにまで伝搬し、観客もウォーボーイズと同じようにまた宗教的熱狂に駆られる。もうね。最高ですよ。毎秒口から洩れそうになる「最高ぉおおおおおだぁあああ!!!!」という叫びをコーラで無理やり流し込みながら合間合間に両手をV型8気筒型に組んでお祈り捧げもしますよ。

そういう訳でこの宗教的熱狂がマッドマックスの面白さの根幹なんだけども、これはね、ホントにね、素晴らしいよ。面白さってだいたいのエンターテイメントにおいて最終目標じゃない。でもこの映画では正しく美しい物語を描くその過程で必然的に面白くなっちゃうわけ。物語世界を誠実に描写するとどうしても面白くなっちゃう、どうしてもテンションブチ上がっちゃう。面白さに必然性がある。面白さに嘘がない。そして最終的な目標が「オモシロの実現」ではないから開始2分で面白さトップギアにしちゃっても問題なし。ゲーム(RPGとか物語がある類の)とかだとやっぱ面白さって小出しにしていってプレイヤーが飽きないようにしなくちゃだめじゃない。でもマッドマックスは開始2分でオモシロさ全開。開始15分でテンションMAX(フュリオサ追って出発する車の後部で愉快な仲間が太鼓叩いてるシーンでチンコ硬くなる)。そしてそのまま最後までずっと面白い。ずっとチンコ硬い。なんて、なんて尊い……。

面白さの根幹が宗教的熱狂だとすると、そんな勢いまかせみたいなもん2時間も持続しないだろと誰もが思うんだけども、それがね、またすごいのが、物語の厚みがハンパないので、全く興ざめさせてくれないんですよ。興ざめするスキがない。ふとした瞬間の仕草、どうでもいい言葉遣いの一つ一つ、無言で虫食べるだけで伝わる人間の美しさ、その一つ一つに説明は全くないんだけども、丁寧に丁寧に繰り返されるそれらのディティールが、物語の深み、ここでは語られない時間、世界までもが映画の中に確かにあるという物語世界の奥行きに繋がっていくわけですよ。もうね。尊いね。

例えば言葉遣い一つ取ってみても分かるんだけど、この映画、終始車走らせてバンバン爆発したり殴ったり銃撃ったりしてるもんで、台詞とかスゴイ少なくて、あっても短いセンテンスの文ばっかなのね。そんである日、もう全部覚えちゃおうと思ってね。通勤中とか脳内上映できたら便利じゃないですか。だから全部台詞覚えちゃおうと思って、5回目くらいから見ながら字幕だけじゃなくて台詞もよく聞いてたんだけど、この映画全編通して FUCK と BITCH って単語が出てこないの。例えばサミュエルLジャクソンが出てる映画とかだとだたい毎分60回くらいはマザファカマザファカ言ってるんだけど、英語圏のこんだけ暴力的な映画で全くFワードが出てこないのってちょっと他に類を見ない感じで、これは倫理的に正しい表現を目指したとかじゃなくて、明らかに不自然な言葉遣いなのね。そんでよく聞いてると他にも一杯特徴的な言葉遣いがあるんだ。
その中でも一番はニュークスがワイブス達を間近で見て言う「So shiny, so chrome」って台詞。女性の美しさを「金属的」って言葉で表現するの初めて聞いたわ。最初は「なんかスゲー特徴的な表現だな」くらいの印象だったんだけど、これが一気に腑に落ちたのが、イモータン・ジョーがニュークスに祝福の銀スプレーを吹きかけながら「お前の魂は英雄の館で永遠に輝く」って言ったところ。この台詞でも「So shiny, so chrome」って表現が使われるんだけど。こんな特殊な表現を複数の人間が複数のシチュエーションで使うってことは、明らかにこの表現には参照元があるって事で、これはV8信仰の中では特別な表現、まぁおそらくはこの世界の聖典からの引用なんだろうね。もうね。震えたね。気が利いてるとか安い褒め言葉をかけるが申し訳なくなる。ただただ尊い

他だとやっぱり印象的なのは「俺を見ろ!」って訳される「Witness me!」って台詞。「Look at me」じゃないんだよね。これアイヲタ的にはツボだよね。要は「認知してくれ!」ってことだからね。他にも色々ありすぎていちいち挙げてたらキリがないんだけど、ようはFワードを使う事でイモータン・ジョー達が現代の荒くれものの延長線上の存在になってしまう事を避けてたり、その他の随所に散りばめられた特徴的な表現も、その人間の内面の暴力性を表すはずの台詞に、現代と違う言葉遣い、一種文学的、神話的ともいえる表現になってて、要は台詞の端々、細かな言葉遣いだけで見事に世界観を強固なものにしてるっていうわけ。
記号的なワードで登場人物を直接的に描写したり、そのものずばり物語のテーマをまんま台詞で言うのは「情報の伝達」ではあっても決して「表現」ではないからね。そういう映画平気で撮っちゃう人は一回ジョージ・ミラーに殴られた方がいいよ。ホントもうね。例えば世界には「命は大事」って言うのを伝える映画で登場人物に「命は大事なんだ!」って台詞言わせるのような下品な映画も残念ながら少なからずあるわけですよ。そんな中で、この映画はなんて品の良い、なんて誠実で、なんて志の高い映画だろう。ただただ尊い…尊すぎる…おじさん涙が出てきちゃうよ(チンコ硬くしたまま)。

まぁそんな感じで兎に角のっけから面白さ全開で突っ走る上に世界観が強固で「表現」という面でも本当に飽きが来ない、見るたびに理解が深まる度量の深さを持った大名作なわけだけども、そこからもう一歩進んでこの映画を全人類が見るべき理由は物語のその「正しさ」にこそある。面白さなんていうのは別に強制されるようなもんではない。みんなそれぞれ勝手に好きなもんで面白がればいいし、なんなら別に面白がらなくてもいい。さらに芸術なんてもっとどうでもいい。文学や美術なんかのリテラシーなんかより料理や洗濯のリテラシーの方がよっぽど重要だ。でも正しさはそうではない。あんまり窮屈なのは嫌だけど、やっぱり、ある程度共通のガイドラインを守る。「正しくある」っていうのは、みんな同じ世界をシェアして生きてる以上必要なんだと思う。

マッドマックスはその点でも素晴らしい。この映画はエンターテイメントとして素晴らしく面白く、芸術的側面から見てもとても高い水準ですべてが美しい上に、理念的にとても「正しい」物語なのです。
マッドマックスという映画の「ストーリー」がどういうものかというお題には色んな答え方が出来る。「砂漠を行って帰るだけの映画」「最初から最後までカーアクションが続く映画」どれも間違ってないんだけども、俺はこう答えたい。マッドマックスという映画は、虐げられた者たちが人間としての尊厳を取り戻すお話しだ。
所有物として扱われたワイブスがイモータン・ジョーから逃げるというのがお話の一番大きな軸になっているのは誰も異論がないと思うんだけども、失った人間としての尊厳を取り戻すのはワイブスだけじゃない。マックスもまた、ワイブスの逃走劇に巻き込まれながら奪われた尊厳を取り戻していく。分かりやすくより大きな軸はワイブスに主眼を置いた軸だけども、より丁寧にそれが描写されるのはむしろマックスの方だ。

マックスが口枷を外すタイミングはニュークスが外したガソリンタンクのケーブルを繋いで戻る途中だ。それまで拘束された野獣だったマックスが初めて共同体に貢献したシーンで素顔を取り戻す。
ワイブスと合流する前、ニュークスからブーツを奪ったマックスは、その後、ニュークスが共同体の一員になった直後に単身武器将軍を倒しに向かう。そして生還したマックスが逃走に必要だった武器、銃弾、ハンドルを戦利品として持ち帰るシークエンスで、マックスはニュークスに片方だけのブーツを渡す。こうやって一つ一つ丁寧に、上品にマックスが人間性を回復する描写を重ねる。と同時に、輸血袋として扱われたマックスが自らフュリオサに輸血をし、隠していた名を明かすシーンでは外連味たっぷりストレートに感動的なシーンを見せたりもする。そしてそれが下品にならないのは、それまでの描写がとても上品だからこそだと思う。

こんな風に、奪ったものを返し、奪われたものを与え、隠していたものを明かす。一つ一つ丁寧にマックスが人間性を回復していく、今更恥ずかしくて口にするのが恥ずかしいほどの根本的な正しさを、決して説教臭くならずに、あくまでエンターテイメントとして、奇怪な車と特盛の暴力で彩りながら語る。こんな素晴らしいお話が他にあるだろうか。

マックスをベタ褒めし飽きたのでバランスをとるためにイモータン・ジョーの素晴らしさにも触れておこうと思う。
まずイモータン・ジョーを悪と見る人がたまにいるが、そんなことはないと思う。というか、この映画で描かれるのは、善と悪という二項対立ではなくって基本的に被害者と加害者、搾取する側と搾取される側という対立構造だ。唯一の例外がフュリオサなんだけども、そこを置いておくと、基本的に全員が利己的に生きているのであって、利害関係の一致による連帯という単位で結びついているけども、その外にいる人間には誰もみな頓着しない。なぜなら、この世界の過酷さが倫理や道徳に準ずることを許さないから。言い換えれば、死に溢れ、狂気に身をゆだねる以外に生きるすべがない(という設定が説得力を持つ)世界で、ご都合主義的に、無遠慮に倫理を振り回すような登場人物の存在をジョージ・ミラーの作家としての倫理が許さないからだ。むしろ映画の中で語られていない部分で、イモータン・ジョーは相当の名君なはずだと思う。イモータン・ジョーは沢山の難民に資源を分け与えている描写がある。通常、民衆は君主にとっての財産だから、搾取しつつもその存在は不可欠だけども。水を求めて群がる難民はどう見ても税金や年貢的なサムシングを収めているようには見えない。この世界でイモータン・ジョーが搾取するのはウォーボーイズたちなはずで、イモータン・ジョーは難民にとって純粋に救世主的な存在であると考えるのが自然だ。そう考えるとこの物語で一番利他的な行動を行っているのはイモータン・ジョーなのだ。(両手でV8を象りながら)イモータン・ジョーを悪とみなす人は大抵マックス一行が善という風に見てるんだと思うんだけど、よく考えて欲しい。この物語の着地はフュリオサがグリーンプレイスに帰ってめでたしめでたしではない。最終的にフュリオサ&ワイブスはイモータン・ジョーを殺して、ジョーが統治していたシタデルを乗っ取って終わる。(仲間のババア達はそもそも旅人撃ち殺して暮らす野盗だし)ことほど左様に善と悪という二項対立でこの映画を見るのはちょっと困難なわけで、要はイモータン・ジョーはスゲー偉い。くどいようだけどもうちょっとだけ説明するとワイブスとニュークスの言い合いである通り、イモータン・ジョーは詐欺師だし人殺しだけど、同時に英雄だし救世主でもある。

そういうわけで、語ろうと思えばあと2万字くらいは余裕で書けるんだけども、気付いたところを全部上げてその度にV8を連呼するのはわざわざインターネット上でやんなくてもリアルで日常的に行ってるし、そろそろ長くなりすぎてもうみんな読むの止めようと思ってるだろうし、7割くらいの人はもう読むのやめてると思うし、そもそもすでに一番館での公開が終ってんのに何今更あーだこーだ言ってんだバカじゃねぇの?とか思われてるだろうし、そんな事言われても公開中は「テキストにまとめる前にもう1回見よう」の無限ループで全然書きはじめられなかったんでしょうがないし、俺悪くないし、誰のせい?それはあれだ!夏のせい!(20年目)だし、まぁとにかく今日はこれくらいで勘弁してやろう。最後にまとめると、マッドマックス超オモシロなんでマジみんなあと10回ずつ見たほうがいいよ。