100年の孤独

I only sleep with people I love, which is why I have insomnia

ロックンおまんこ


日本のディープ・アンダーグラウンド・アイドルシーンで活躍する二人組「ワイドル」の持ち曲に「ロックンおまんこ」という曲がある。
基本は森高千里のロックンオムレツの「オムレツ」の部分を全部「おまんこ」に変えただけなのだが、侮っていると「愛情上手はおまんこ上手」というもはやオリジナルを越えたパンチラインにガツンとやられるので要注意だ。この曲の中でワイドルの二人は「おまんこ」を連呼し、聴衆にもそれを強要する。
俺はこのバカなステージが素晴らしいと思う。「おまんこ」を連呼するが、このステージングには微塵もエロティシズムは感じられない。そこにあるのは小4男子的頭の悪さと、尊いほどの健全さだ。この健全さがどれだけ貴重か、どれだけ尊いものなのか。
「まんこ」という単語を俺たちは基本的に発語しない。「まんこ」には「ちんこ」にはないタブー感がある。「まんこ」と比べると「ちんこ」という言葉は圧倒的にポップだ。女性器が男性器に比べて禁忌とされるのは何故か。
トイレで排尿後の小さい男のにお母さんが「ちんちんふいた?」などと話していても「おおらかだな」程度の感想しか持たないが、女の子に「まんこふいた?」と聞いていたらなんとなく「言葉を選んでほしい…」と思ってしまう自分がいる。やはりそこには何がしかの抑圧があるのだ。

これは別に俺が独自の鋭い視点で考えているというわけではない。この問題についてはイヴエンスラーというアメリカの女性作家が明るい。イヴエンスラーは著作の中でこの問題について、とても本質をついた発言をしている。

「語られないものは、秘密になり、秘密はやがて恥と恐れと迷信を生む」
自分の体の一部を恥や禁忌の対象として扱うのは、きっと幸せな事ではない。「まんこ」はもっと(少なくとも「ちんこ」と同程度に)ポップ化されるべきなのだ。
そういう意味で、ロックンおまんこは一種のフェミニズム運動という見方が出来る。ロックンおまんこには、それが意図されているかどうかによらず、結果的に女性器の禁忌視に対するアゲインストとしての効果がある。

演劇にもなっているイヴエンスラーの著作「ヴァギナ・モノローグ」には世界各国の言葉で女性器の名前を大声で叫ぶパートがあるが、ワイドルの二人はいつかイヴエンスラーに招待されてアメリカで「ヴァギナ・モノローグ」の前座か何かでロックンおまんこを披露して欲しい。
あと、こういうのは「バカだな〜」と笑って楽しむのが良いので、そこに思わぬフェミニズム的な符合を見つけたからと言っていちいちひけらかさずに、ゲラゲラ笑ってるのが本当に上品な人なんだと思う。