100年の孤独

I only sleep with people I love, which is why I have insomnia

こんばんわ。椎名彩花です。

待つというのは時計になるということだ。
時計になって穿たれた日々に雨が舞っている。風が道に落ちた紙切れを「拾おうとして要らないものだと気づいて捨てる」をくりかえしている。あの紙切れは私だと思った。風には無数の手があるわけではないので、拾う手は捨てる手だし、さしだす手は振り払う手だ。本当にあの紙切れは私そのものだな、とまた思った。風の手に押されたり引かれたりして私は自由に、理由なく、埃のように右往左往した。いや違うか。自由とは理由がないことではないでしょう。自由とはむしろ無数の理由があることなのかもしれない。

年末に久しぶりにライブに出た。自分でもびっくりするくらい緊張した(そして歌詞を少し飛ばした)アイドルを止めた私がもう一度人前で歌うというのはそれこそ「無数の理由」があるのだけれど、まぁとにかく出て良かった。うそ。緊張しすぎてあぁもうこんな思いをするなら出なきゃよかったとすら思った。でもホントに無事に終わってよかったよ。イベントの主催者が昔アイドルをやっていた時のメンバーなんだけど、緊張して青ざめた私を見て笑うのを必死でこらえていて恨めしかった。許してほしい。新しいことを始めたりするのが苦手なんだよ。私は。

  

ずいぶん前に図書館で睡眠薬代わりの本を探している時に手に取った本。怪獣みたいな名前の作者が書いた、ひどく回りくどい言い回しばかりの本。そこには「出発することは、生まれること死ぬことと同じように単純になる」と書いてあって、その時は言っていることが全然わからなかったんだけど、なぜか未だにそのフレーズを覚えている。

出発するというのは新しい事を始めるという事だろう。そしてそれは生まれ変わることの、つまり死ぬことの100倍希釈だと思う。
思えばかつても今も、バス停に立っても駅のホームに立っても、どこかへ行くことはできても出発するというのはいつも困難だった。
いま列車が出ようとするプラットホームを思い浮かべようとすると私にはふたつの駅しかないことに気づく。そしてそれは記憶の中で入り混じってどっちがどっちだったのかすでに私にはわからない。かつて私はその駅で誰かを見送った。いや、見送ったのか見送られたのかもわからない。ただ見送る人を愛していた。旅立つ人を愛していた。そんな感覚が胸に残っている。
見送る私は、そして見送られる私はただ悲しかった。でも悲しみは問題じゃない。だってホントは悲しくはなくて寂しいだけだから。そして寂しさも問題じゃあない。なぜならただ寂しいだけだから。

  

私は自由に、理由なく、埃のように右往左往してきた。だから埃のように移動して偶然わたしの近くに至ったひとを大切にしなければならない。そして埃のように移動して去ってしまった後も、そのひとの何かを留めていたい。それは言葉か。それは香りか。それは思い出か。私たちはもはやすれ違うことさえ許されない。古い手紙に書かれた、触れる前に消えてしまう雪のような言葉が胸の奥の方に突き刺さる。切り裂かれた傷からあふれるのは思い出。どこへ消えるか教えようともせず消えてしまうもの。