100年の孤独

I only sleep with people I love, which is why I have insomnia

ナグリアイ live at Matsuzawa Hospital

日本のアンダーグラウンド・アイドルグループ「ナグリアイ」が2018年に行った、精神病院でのライブを記録した映像を観た。
ステージの最中に、興奮した患者たちがステージに乱入し、演者のマイクを奪って絶叫するというあのシーンの写真は、マニアならずとも一度はインターネットのそこかしこで見たことがあると思うが、その動画を、全編を通して視聴した人は稀ではないだろうか。

動画を見てひとつ分かったことがある。結局のところ、古来からミュージシャンのパフォーマンスのその多くは、頭のおかしい人のする行動の模倣であるということだ。頭のおかしい人にあこがれ近づくために、正常な人たちが音楽を足掛かりにしている。本当に頭のおかしい人たちの中でパフォーマンスするナグリアイのメンバーの表情からは、自分達を取り囲む頭のおかしい人たちに同化しようとしながら、しきれない、しかし、しきれないからこそ際立つ異常性、そういものが見て取れた。

そこまで極端ではなくても、ライブの現場では演奏者を観ているより、観客の様子を観ている方が面白いということはしばしば起こる。そんな様子を記録したライブ音源や映像は貴重だ。

例えば、ミオ・マスイ、マコト・オクナカ、シオリ・モリ、サコ・マキタの4人時代のpasspoのロンドンのクラブ・ロキシーでの演奏を録音したブートレグでは、演奏をかき消さんばかりの十代の女の子達の間断ない叫び声と、バンドの演奏の曲間で何が起きたのか、突然響く銃声と不穏な金切り声を聞くことができる。この音源はまだ日本のアンダーグラウンド・アイドルに全く興味が無かった僕を開眼させてくれた名盤だ。

ライブに集まるのは、ときに演奏者にとって敵としか思えない連中である場合もある。古くはセックス・ピストルズのテキサスでのライブ。演奏中に客席から投げつけられるビール瓶、その他何だか分からない様々なモノ。ついに、観客に向かってベースのボディを振り下ろすシド・ヴィシャス。そんなような光景は、今でも夜のライブハウスやステージのあるプールバーの、そこかしこで見ることが出来る。

今でこそオーバーグラウンド、アンダーグラウンドを問わず世界的に注目される日本のシーンだが、日本の観客が演奏される音楽にふさわしい奔放さを発揮できるようになったのは、わりと最近のことかもしれない。90年代に入って日本でも広まったダイヴやモッシュが果した役割は大きく、それらがヲタ芸と呼ばれる独自の進化系に繋がり(事の経緯には諸説あるが詳細は来月のNME増刊に譲る)、今やヲタ芸は「フランク」(ライブ中に故意に肋骨を骨折して演者にレスを貰う)や「FFFH」(ライブ中に出産する。語源はPPPHのリズムに合せてラマーズ方の呼吸をすることから)などの「芸」といえる領域を超えた過剰な行為に繋がるわけだが、そのほんの20年前、70年代までの日本の観客は、二拍四拍の位置で手拍子を打つことができなかった。バンドがどれだけファンキーな演奏を繰り広げていても、日本の観客は頭打ちの手拍子で田舎の宴会にしてしまうのだ。日本のロックのライブ盤で、ドラム・ブレイクを見つけてサンプリングしようとしても、そこに被っている観客の手拍子が頭打ちのせいであきらめた、ということが何度もある。

僕が初めてサンプリングした日本のミュージシャンのドラム・ブレイクはPerfumeのTwinkleSnowPowderySnowだ。この曲は公式の音源を買う前にひょんなことからブートを手に入れたんだが、聞いた途端にそのドラムとシンセベースに一発で脳が沸騰しそうになったのを覚えている。もちろんすぐにサンプリングしようと試みたんだが、粗悪なブートのご多分に漏れず、ヲタの話し声が邪魔で使えるようなものは抜けなかった。しかしそれでも収穫は大きかった。ライブの録音に被さった観客の会話、「マナブセンパイ」と「アールワイオー」と呼ばれる二人のブッ飛んだ会話の内容は、極東の地下社会のフィクサーを思わせるそれで、僕は一気に「ヲタ」と呼ばれる彼らの生態、彼らの世界で何が起きているか、その怪しい魅力に取り憑かれてしまった。このブート音源は、ライブの途中「圧縮」によって最前の金属のバーにわき腹がめり込んで苦痛に顔を歪めるファンに向かって、ステージ上のメンバー、アヤカ・ニシワキがこう声をかけたところで終っている。

「痛むか? 耐えろ、生きるとは(ライブとは)そういうものだ」

彼がその後どうなったのか、私には、知るすべも無い。